2020年
3月
09日

1世紀前から見た新型肺炎の世界

新型コロナウイルス感染症に罹患されたみなさまやご家族のみなさまに、心よりお見舞い申し上げます。1日でも早く快方に向かいますこと、お祈り申し上げます。

皆様のご健康を心よりお祈り致しますとともに、一日も早くこの事態が終息し、平穏な生活が取り戻せますよう共に乗り越えていけたらと存じます

疫病に縁を忍ぶかの様に書き綴るのはいかがかとも思いますが、化学研究とは別に、人や社会について先人から聞いた話を載せておくことも何かにつながればという思いから綴っておきます。

国家的な問題となった結核と癩病(ハンセン病)を見てきた昭和2年(1988年)生まれの祖母に、その当時と中国で発生した新型肺炎に対する今の世の中をどう見るかを聞いてみました。

※ 引用として文字が斜体となっている部分は祖母のそのままの発言です

国民病 “結核”

戦後の日本は結核を国民病とし法律が出来るほどで、当時は不治の病とされました。人が多く接する駅の構内、汽車内の洗面所や床面には痰壷といって痰を吐き出すための設備が法律によって強制されます。新入りの駅員は「痰壷掃除」が課せられました。

私の祖父母は両家とも武蔵野の平野で農家を営んでいました。祖母が小学生の頃、下校時刻になると街道沿いを霊柩車が行き交ったそう。毎日通りがかるたびに何台か見た記憶があるというから、その数は計り知れません。

痰壷ではないが、目に入った蒸気機関車のススを流すための駅の洗面所・静岡県千頭

結核の記憶

療養所と焼き場を結ぶ街道の現在

霊柩車と言っても、その時はトラックみたいな車ね。お辞儀してはいけないだとか、手を隠せとか、手を振ってはいけない。そんなデマがあったのね

この街道は結核の療養所と、東京西部に位置する火葬場(焼き場)を結んでいた道路です。

療養所は今は東京病院という名前の病院になっています。

周辺の住人は、療養所の存在を嫌がる人も多くいたが、中には商店などは儲かっており歓迎していた人もいたという。軽度の患者は昼間に街に出て買い物をすることができたそうで、白装束を着ているので一発で分かったそうです。

軽い(症状の)人は歩き回ってたから、浴衣掛け(白い服)ですぐにわかった。小山のほうは嫌がってたみたいよ。

当時、きれいな空気の中で過ごすことが結核の唯一の治療方法でした。確かな治療法は確立されておらず、真冬も窓を開けて寒さに耐え忍んだそうです。選ばれたこの場所、今もなお林があり空気が澄んだ場所といえます。

卵とか買いにくるのね。療養所に入ってる人は東京のお金ある人達だから羽振りはよかったんだろうね

周囲に経験者がいたわけではないので余談になりますが、この療養所に隣接して全生園というハンセン病の療養所があります。このハンセン病(癩病)は、戦争による混乱も伴って差別が生まれた病でした。

「人間が腐っちまう病気」と表現されていた様に、容姿に影響が出るものでインパクトは大きかった。戦中には治療薬は存在していたのですが、国が差別的ともいえる隔離を行ったことで、着手に遅れたことで混乱を招いたといいます。

現在は診断と治療が容易になっており、重症化することもありません。

結核で亡くなった兄さん

そんな祖母の長男は、若くして結核で亡くなっています。当時の農家は村社会ということもあって、噂はすぐに知れ渡り、自宅で療養していたそうです。しかし家庭内では「結核」という言葉を最後まで聞かなかったそうです。禁句だったのかもしれません。

最高の大学病院に行っても結核とはわからなかった。子供には内緒だったのかもしれない。うちの中はうつるとかはないけど、近所中はうつるとかよくわからない話があったのね。日が暮れない前に戸(雨戸)を閉めてた。

シングルマザーで、男手を失った祖母の家は、その後、今では想像できない貧しさを経験することになりました。

この医者がいいと評判がまわれば、みんなでかじりついた。自転車でよくきてくれた。お金がないとかかれなかった。隣の家は仲良くなったから(結核については)隠してた。前の家とは仲が良かったからなんでも言った(カミングアウトしてた)。金借りるにも銀行もないし大変だったと思う。

祖母の姉がお見合いをした時の話。当時は見合いをする前に、周辺の家に評判を聞いて回るのが習慣としてあったといいます。その相手の家と仲の悪い家にも評判を聞いて、総合的に判断したそうです。

そういった中で、あの家には結核の兄さんがいるから…と止める人も居たといいます。

お葬式も風評被害みたいなのを気にしてた。上の上の姉さんは嫁の貰い手がいなくて。あいつは結核だろうと決める。今でいうお見合いの前に、嫁が決まる前にみにくる。近所も平気で悪口いうのね。悪戯好きとか、器量はいいけど学校ができない(成績わるい)とか。近所のおばあさんが「おめぇよぉ。(…あいつは〜なんだよ)」と告げ口にくる。

結核で死んだ場合は、近所が騒いだそうです。だから近所が騒ぐのが怖いから小さくなってたといいます。死んでも家に持ってこないで、焼いて骨でもってきたそうです。

この前に墓参りが実家であった。50(歳)くらいのひとがなんでお骨なのか?って聞いてきた。昔は焼かなかったからなんでだろうって思ったんだろうね。みんな黙ってたけど(笑)

買い占めと闇市

メルカリでマスクが高額で出品されていたために、政府が規制をかけた。また食料品、特にお米が店頭から消えている。この様なことは当時どうだったのかを聞いてみました。

誰かからマスク二枚あげると言われたらどこまでいく?なにを渡す?闇市ってそういうこと。

祖母の家は農家という立場もあって、買い付けに来る人が多かったと言います。要は転売ヤーです。

東京(都心部)のひとの買い出しがきて。「あの家はさつまいも売ってくれるとよ。」(と言う噂を聞きつけると)みんなかけていった。うちは東京のひとが食器棚をくれた。それでさつまいも買ってったんだよ

そうして、まとまった農作物や衣服などは都心へと持ち運ばれます。祖父は週末になると、東京・神田へと向かったそう。闇市というと暗そうだが、気になる服をみて回ったりと、楽しみもあった様です。

お父さんとお兄さんは、休みの日は2人で古いものかった。蓄音器とかもそこで。仲良かったみたいよ

新型肺炎に対する人々の反応をどう思うか

祖母から見て、今回の新型肺炎での社会の混乱については騒ぎすぎではあるけど、ネットの時代だから当然だよね、という意見でした。

私なんか怖いかどうかじゃないのね。兄さんは結核、息子は肺癌で死んだし、お父さん(夫)も肺でしょ。みんな苦しんで死んだから。苦しまないで死ぬなんてできないわけだし。だからコロナだかなんだかわからないけど。死んだらもう仕方ないじゃないのよ(笑)

病人の家族が病名を知らされなかった様な、情報の統制が出来てた時代とは違う。ここまで祖母の話が軸となっていたが、それはあくまでも参考としての記述であって私の感覚とはまた少し異なるものです。

私はなんでもいいわけではなく、公衆衛生については徹底されるべきだと思います。

しかしながら東日本大震災でも東京の場合一番の被害は人による買い占めと経済や観光への影響でした。

不必要に不安になり過ぎ混乱が生じれば、病以上の被害を自分たちが被ることとなる。そのバランスは常に見極めていく必要があると思っています。